【山口和幸の茶輪記】第一次世界大戦から100年目のツール・ド・フランスになに思う… | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【山口和幸の茶輪記】第一次世界大戦から100年目のツール・ド・フランスになに思う…

オピニオン コラム
フランス最大の激戦地ベルダンを走る2001ツール・ド・フランス
フランス最大の激戦地ベルダンを走る2001ツール・ド・フランス 全 5 枚 拡大写真
1903年に始まったツール・ド・フランスは2003年に記念すべき100周年を迎え、続いて2013年が第100回大会となった。あれ? 数字が合わない!と思うだろうが、二度に及ぶ世界大戦によって中断を余儀なくされた過去があるからだ。

グランツールと呼ばれる三大大会において、2014年にツール・ド・フランスは101回、ジロ・デ・イタリアは97回の開催となるのに対して、ブエルタ・ア・エスパーニャが69回と少ないのはスペイン内戦によって平和の象徴でもある自転車レースをする環境ではない時代が続いたことが原因だ。戦争というのは人々の命を奪ってしまうのと同時に、伝統や文化、娯楽までも消滅させてしまう。

1914年のツール・ド・フランスは、6月28日にサラエボでオーストリア大公が狙撃されるという発砲事件の数時間前に開幕した。ご存知のようにその事件は第一次世界大戦のきっかけとなり、その年はなんとかゴールしたツール・ド・フランスであっても、翌年から4年間の開催中止に追い込まれた。

ツール・ド・フランスが再開したのは1919年。ステージ数は15と変わらなかったが、総距離は5560kmに伸びた。競技性が高まり、レースが確立してルールが定着してくると、取材陣から「総合トップの選手が集団の中でも一目で分かるようにしてほしい」という要望が増えてきた。そこでレースディレクターであるデグランジュが特別な色のジャージをトップ選手に着せることにした。

リーダージャージのシンボルカラーとして採用されたのは、主催者ロト新聞の紙の色だった黄色だ。だれもがごく自然に、フランス語で黄色いジャージという意味の「マイヨジョーヌ」と呼ぶようになった。「マイヨ」はジャージ、「ジョーヌ」は黄色というフランス語である。

このロト紙は第二次世界大戦の混乱期に資産が国家に差し押さえられ、しかも占領国ドイツとその傀儡政権に近かったことで廃刊となる運命をたどる。大戦後の46年にレキップと名前を変えて復刊したとき、フランス新政府はその条件としてロトをほうふつとさせる黄色い紙面を返上させた。だから現在のレキップは普通の新聞紙なのだ。

25年以上もツール・ド・フランス取材のためにフランス全土をめぐっていると、第一次世界大戦による戦没者の慰霊碑が多いことに気づく。往時のフランスは戦場で、多くの命が爆弾によって絶たれたという歴史を痛感する。最大の激戦地は敵国ドイツとの国境近く。2014年のコースでは第7ステージだ。平和を寸断させた悲劇から100年が経過した今、改めて平和の尊さを再確認するためのステージになるだろう。

《山口和幸》

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