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【THE INSIDE】都市対抗野球…日本の産業発展とともに歩んだ歴史(後編)

オピニオン コラム
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後楽園球場から東京ドームに場所を移した都市対抗野球は、灼熱の"真夏の球宴"というイメージから、空調の効いた球場内ということもあって、より洗練された社会人野球の最高峰という印象が強くなってきた。

時代も昭和から平成に変わろうとしていたころだった。昭和最後となった1988年の大会がドーム元年の大会となった。優勝したのは前年準優勝の東芝で、準優勝がNTT東海だった。東芝は、日本石油(現JX-ENEOS)や日本鋼管などと神奈川県内で競い合いながら、全盛期を迎えつつあった。1991年、1999年にも優勝を果たすのだが、「プロ野球の最下位チームと試合をやっても勝つのではないか」と言われるくらいに、安定したチーム力だった。

■金属バットが導入で増える打ち合いの乱戦

平成になって、新時代の匂いを感じさせたのがプリンスホテルの躍進である。1983年に初出場を果たすと、7年連続の出場となった1989年に悲願の優勝を果たす。時代もちょうど平成と元号が変わった年だった。東京ドーム開催となって2年目のことである。まさに、新しい時代の到来を感じさせるものだった。

この時期の社会人野球は金属バットが導入されており、試合そのものも投手が抑えるという展開は少なくなってきていた。点の取り合いとなることが多かった。1990年の決勝、ヤマハ対新日鐵広畑は12-11だった。ヤマハは1回戦でも西濃運輸から10点を奪っている。2回戦ではNTT東海が東芝府中に12-11というように、2ケタをめぐる打ち合いの乱戦が多くなっている。

1991年決勝も東芝対三菱重工長崎が16-6と、スコアだけ見るとラグビーの試合かと思われるくらいに2ケタ得点試合が相次いだ。東芝は1回戦から13点、12点、10点、少なくても8点とことごとく得点を奪ってきていた。野球そのものの質が明らかに違ってきていた。だから、守り型というよりは、どんどん点を取るスタイルのチーム作りをしてきたところが結果的に勝利していた。1992年の本大会では31試合中、完封試合は1試合のみしかなかったのだから、いかに投手受難の時代だったかということになる。



■金属バットは使用禁止へ

ちなみに金属バットは、1979年の大会から認可された。金属バットの特徴を把握し、多くのチームが金属バットで戦っていた90年代は明らかに野球が変わってきてしまっていた。1995年、1996年の大会は決勝のスコアがいずれも8-7。1995年の優勝チームの日本石油は初戦から、13点、10点、15点と2ケタ得点を挙げている。1996年の本田技研も準々決勝では三菱重工神戸を相手に17点を挙げている。

打ち合いの展開となる試合も多く、狭い川崎球場を使用していた神奈川予選などでは、「10点リードでもセーフティーではない」と言われていた。結局、金属バットは2001(平成13)年をもって使用禁止となった。

この頃は、東日本勢のなかでも首都圏のチームが黒獅子旗を手にしている。1992年の大阪市日本生命と1994年の本田技研鈴鹿(現Honda鈴鹿)以外は、浜松市のヤマハを含めて東日本勢が優勝している。川崎市・東芝、横浜市・日本石油、和光市・本田技研(現Honda)横須賀市・日産自動車など首都圏勢が黒獅子旗を手にし、準優勝も浦和市・日本通運、東京都・熊谷組など、首都圏勢が多くを占めいていた。

【都市対抗野球…日本の産業発展とともに歩んだ歴史(後編) 続く】
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《手束仁》

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