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【THE ATHLETE】ヘビー級王者マックス・シュメリング…激動の時代に貫いた、絆と信念

オピニオン コラム
マックス・シュメリング 参考画像(1936年1月1日)
マックス・シュメリング 参考画像(1936年1月1日) 全 7 枚 拡大写真
■シュメリング対ルイス1度目の対戦

無敗の天才ルイスに対し、シュメリングはジャブの打ち終わりに弱点があると見抜いた。左手が下がりガードが空く癖を見つけたのだ。そこを試合では徹底的に攻めた。左のガードが下がったところへ右をねじ込んでいく。序盤からパンチを効かされたルイスは判断力や動きが鈍り、ついに12ラウンドKO負けを喫した。

アメリカのホープを倒したシュメリングの活躍はドイツで大々的に報じられ、映画館では繰り返し試合映像が流された。ナチスは彼を「我々が人種的に優れていると証明した偉大なチャンピオン」として宣伝に利用する。

挑戦権1番手と見られていたルイスを倒したことで、シュメリングは自分が次期挑戦者だと考えた。周囲も当然そう思っていた。だがブラドック陣営は持病でもあった手の負傷を理由に、シュメリングとの試合を延期した。そのうちルイスとの対戦を予定しているとの噂が流れ出す。一説にはシュメリングが勝利した場合、ナチスがベルトを独占しアメリカ人が挑戦できなくなるのではという危惧があったとされる。

ニューヨーク委員会やマディソン・スクエア・ガーデン社は、ブラドック陣営にシュメリングと対戦するよう要請し、法的手段に出る構えも見せた。だが最終的にはブラドック対ルイス戦が決定し、シュメリングは失意のままドイツに帰国した。

■世紀の対決と謳われた第2戦

それでもシュメリングの王座挑戦はすぐに訪れた。ブラドックをKOしたルイスが世界タイトルを奪取し、防衛戦で挑戦者にシュメリングを指名したのだ。多くの人々はふたりの試合を求めた。しかし、シュメリングとヒトラーの関係を気にする人々は、この試合を恐れた。

シュメリングがヒトラーやナチスから送り出されたように、ルイスもフランクリン・ルーズベルト大統領から「ドイツを打ち負かすには君のような筋肉が必要だ」とホワイトハウスで激励を受けていた。

「私はシュメリング戦で良い結果を出さなければならないと分かっていた。個人的な理由があったし、アメリカは私に依存していた」と後にルイスは語る。純粋なボクシングの試合で終わらないことは誰の目にも明らかだった。

試合はドイツがポーランドに侵攻する前年、1938年にヤンキースタジアムで行われた。当日は7万人とも言われる観客が集まり、入場してくるシュメリングにゴミを投げつけた。

ゴングが鳴ると試合は一方的なものになった。立ち上がりからシュメリングはルイスの猛打にさらされ、リング上で為す術なく右に左に打たれた。プロ生活で初めて喫した1敗。その悔しさからルイスは急速にボクサーとして完成度を高めていた。


シュメリング対ルイス

3度目のダウンで続行不可能と判断したセコンドがタオルを投げ入れる。だがレフェリーはタオルを拾い投げ返した。カウントが続くリングにシュメリング陣営が乱入し、ようやく試合は終わった。完全決着を求める会場の雰囲気に当てられたと言われるが真相は分からない。

こうして世紀の対決は、わずか2分でルイスの圧勝に終わった。

■終生続いたジョーとマックスの友情

ルイスに完敗したシュメリングをナチスは遠ざけるようになった。利用価値なしと判断すると冷淡だった。

第二次世界大戦(WWII)が始まるとシュメリングは落下傘部隊に配属された。約1年間の勤務後、足を負傷し前線から外れ、配置転換された先で終戦を迎える。

戦後のシュメリングは生活苦に陥り、ファイトマネーのため5試合だけプロボクサーに復帰した。3勝2敗の成績でグローブを置くと彼はコカ・コーラ社で働き始め、実業家として成功し財を成す。貧困に苦しむ人々を救済する基金も作るなど、社会貢献活動にも積極的だった。


マックス・シュメリング

そんな彼の耳にルイスが苦しい生活を強いられているという話しが入ってくる。リング上では歴史に名を残す偉大なチャンピオンだったルイス。だが私生活ではファイトマネーの大半を搾取され、引退後の彼は常に財政面で悩まされることになった。

ルイスは40歳を過ぎてからプロレスラーデビューし、何とか滞納した税金を払おうと必死だった。しかし心臓病により数試合で引退を余儀なくされる。その後はレフェリーとしてプロレスに関わっていた。

シュメリングは匿名でルイスに資金援助を始めた。ふたりの関係はルイスが亡くなる1981年まで続く。ともに国家に利用されたシュメリングとルイス。ふたりの間には彼らにしか分からない絆が存在したのだった。

ところで、シュメリングはルイスとの試合、取り分けWWII前哨戦となった2度目の試合をどう思っているのだろう。1975年に彼はインタビューでこう答えている。

「試合の結果には満足している。ちょっと想像してみて欲しい、もし私が勝利しドイツに帰ったら。私はナチスと無関係だったが、彼らは勲章を授与しようとしただろう。そしたら終戦後、私は戦争犯罪人になっていたかもしれない」

晩年のシュメリングは友人に「100歳まで生きたい」と話していたが、その目標を前に2005年、99歳で他界した。


1994年のマックス・シュメリング

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《岩藤健》

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