【THE REAL】夢の第2章へ…現役に別れを告げるレジェンド・澤穂希の心と体を鼓舞するモチベーションソング | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【THE REAL】夢の第2章へ…現役に別れを告げるレジェンド・澤穂希の心と体を鼓舞するモチベーションソング

オピニオン コラム
澤穂希
澤穂希 全 7 枚 拡大写真
人生の半分以上においてなでしこジャパンの屋台骨を背負ってきたレジェンド、MF澤穂希は試合前になると静かに「勝ち曲」に聴き入り、フィクションの世界と現実の世界をシンクロさせてきた。

たとえば2011年夏の女子ワールドカップ・ドイツ大会。大のサッカー通でも知られるシンガーソングライター、ナオト・インティライミの通算5枚目のシングル『Brave』が、澤にとってのヘビーローテーションだった。

準々決勝で大会3連覇を狙ったドイツ女子代表を延長戦で、決勝では24回戦って一度も勝っていないアメリカ女子代表をPK戦の末に撃破。世界の頂点に立った軌跡は、実は『Brave』の歌詞そのものだった。

≪Ah 夢のまた夢で届かない いつかは描いたものを この手に掴むまで歩き続けていこうか≫

いまもファンやサポーターの記憶に色濃く残る4年前のワールドカップ制覇は、澤をして「日本の女子サッカーの歴史を変えた日」と言わしめる。だからといって、世界一を手にするまでの苦難の日々も決して忘れていない。

初めて日の丸を背負ったのは1993年12月。当時は遠征すれば大部屋に雑魚寝は当たり前で、遠征費の半分を自己負担するケースも少なくなかった。15歳4ヶ月の澤も、もちろん例外ではなかった。

1996年のアトランタ大会で五輪初出場を果たした頃は、国内のLリーグも空前の盛り上がりを見せる。ヨーロッパやアメリカからスター選手が集結し、世界最高峰リーグと呼ばれたのもこのころだった。

一転して、景気の悪化とともに冬の時代も味わわされた。バブル経済崩壊の余波を受けて撤退チームが続出するなど、縮小傾向にあったLリーグにシドニー五輪出場を逃したショックが追い打ちをかける。

澤は1999年から、日本女子代表の副キャプテンを任されるようになった。受け取ってみて初めてわかるバトンの重さ。この状況でアテネ五輪出場まで逃したら、日本女子サッカーの灯そのものが消えてしまう。

アジア最終予選前に右ひざに重傷を負った澤は痛み止めの注射を打ち、キックオフ前には座薬まで服用。激痛を執念で乗り越えて、負けたら終わりの北朝鮮女子代表との大一番に勝利。未曾有の危機を救った。

一方で新たな挑戦の場を求めたアメリカでは、リーグそのものが消滅する憂き目に遭った。中学生のときから慣れ親しんできた日テレ・ベレーザからは、2010年オフにプロ契約を結ばない旨を通告された。

J2を戦っていた東京ヴェルディと合わせて、経営事情が逼迫していたことが理由だった。翌年からINAC神戸レオネッサに移ると、太陽が高い午前中に練習ができる環境をようやく得た。

選手の大半が昼間に仕事に就いていたベレーザでは、夕方以降しか全員が練習できる時間がなかった。翻ってINACは、文弘宣会長の理解と支援のもと、全員がプロまたはプロに準じる形で活動できた。

まさに波乱万丈に富んでいたからこそ、澤は『Brave』の歌詞に自らの半生をダブらせていた。2013年9月にオンエアされたNHK教育の音楽番組で、澤は『Brave』にこう言及している。

(次ページ ワールドカップの時に背中を押された曲)
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《藤江直人》

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