ツール・ド・フランスで有名なオービスク峠にゴールする。ボクにとってこの山岳は取材記者となる選択を決したところでもある。
■ひとりの写真家から受けた衝撃
エイ出版社から2009年3月10日にツール・ド・フランス関係の文庫本3冊が同時発売された。表紙に巻かれるオビがそれぞれ黄色、水玉、緑色とツール・ド・フランスのリーダージャージにちなんだものだった。そのひとつが北中康文さんの『ツール・ド・フランス 黄金時代』だ。
現在はネイチャーカメラマンとして、「日本の滝」を撮らせたらナンバーワンのカメラマンだが、1986年~1991年までの6年間にツール・ド・フランスを追いかけた時代がある。ツール・ド・フランス取材はもう四半世紀を超えるボクにとって、この世界に没頭するきっかけとなる「衝動」を与えてくれた先達だ。
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オービスク峠
北中さんがまだかけ出しだった1989年、ツール・ド・フランスで一緒になった。ボクにとっては初の現地取材で、しかもレース大詰めのアルプスからの途中入り。これに対する北中さんはその年も開幕初日からのフル参戦だった。
最終日のパリ・シャンゼリゼでグレッグ・レモンが8秒差の逆転劇を演じた年で、興奮冷めやらぬパリのその夜は夕食をご一緒させてもらった。ビールかワインを飲みながら楽しい会話をしているうちに、仕事をやり遂げて気が緩んだのか北中さんが気絶してしまった。
そのときボクは「ツール・ド・フランスの全日程を追うのって、こんなに激しいことなんだ!」と、とてつもない衝撃を受けた。真夏のフランスでホコリまみれになりながらも、選手とともにパリを目指す。そうじゃなければ感じられないなにかがある。20年を経過した今でもそれはボクのポリシーだ。
北中さんの文庫をパラパラとめくると、思い出深いシーンがいっぱいある。1990年にオービスク峠の絶壁を選手たちが集団となって走る写真も収録されていた。このワンシーンは当時の自転車専門誌に巻頭見開きページでドカンと掲載され、ボクはもう目が釘付けになるほどの感銘を受けた。ツール・ド・フランスはもはや単なるスポーツではなく、大自然と対峙するほどの崇高な領域にあるんだと感じた。
1903年に始まったツール・ド・フランスが世界最高峰の自転車レースとしての地位を決定づけたのは、自転車で上ることなどだれひとりとして当時は想像できなかった過酷な峠をコースに加えたことだ。1909年に大会主催者はピレネーにある4つの峠、オービスク、ツールマレー、アスパン、ペイルスールドを加えた。
そのなかでもオービスク峠(Col d’Aubisque)は100年後の今でも当時の面影を残す秀峰だ。急傾斜の断崖絶壁をえぐって、無理矢理に取りつけた道。現在もガードレールなんてない。下りでコントロールを失ったら奈落の底に転落するのみ。
【山口和幸の茶輪記】一度は上ってみたいツール・ド・フランスの峠10選(6~4と番外峠)
1997年から全日程を追いかけることになったボクは、毎年のコースにオービスク峠が加わるのを楽しみにしていた。ただしツールマレー峠とは異なり、このルートが採用されることはまれで、数年に一度しかオービスクは訪問しない。
コースとなったときは満を持して「北中さんの撮影ポイント」を見つけようとクルマのハンドルを握るのだが、背後から選手団が迫ってくるという緊張感からあっという間に通り過ぎてしまう。この取材では逆走が許されず、クルマを安全な場所に止めるゆとりもなく下山を余儀なくされた。
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オービスク峠は断崖絶壁だ
2015年のツール・ド・フランスはオービスク峠を通過しなかったが、ボクだけはその日のゴールを目指す迂回路としてオービスク峠を目指し、全日程を単独取材するようになって19年目にして北中ポイントを発見した。もちろん大集団はやって来なかったが、壮大な景観に心打たれる至福の時を楽しんだ。
ツール・ド・フランスが初めてピレネーを越えた100余年前、人食い熊が生息していて選手たちに襲いかかるんじゃないかと危惧された山奥である。