2年半プレーしたJ2のジェフ千葉から、J1の川崎フロンターレへ完全移籍して臨む2016年シーズンへ。かつては「怪物」や「怪童」という枕詞が常につけられてきたストライカーは、フロンターレのサッカーに憧憬の念を抱いてきたと打ち明ける。
「フロンターレのサッカーにすごく興味があったし、試合もよく見ていた。ボールを回しながら攻める攻撃的なスタイルは独特だったし、そのチームから話をもらったのですぐに決断できました」
■15歳11カ月28日のJリーグ最年少得点記録
1988年5月7日に横浜市で生まれた森本は、すぐに川崎市宮前区へ引っ越す。地元の津田山FCで7歳からサッカーを始め、10歳のときに読売サッカークラブのジュニアへ加入した。
眩いスポットライトを浴びたのは、ジュニアユースからユースへの昇格を間近に控えた2004年3月。東京ヴェルディを率いていたオズワルド・アルディレス監督が、森本をトップチームへ帯同させたからだ。
迎えた3月13日。ジュビロ磐田との開幕戦の後半6分からピッチに投入された森本は、Jリーグ史上で最年少となる15歳10カ月6日での公式戦出場を果たす。
中学卒業前の少年が与えた衝撃は、まだ序章に過ぎなかった。第2節からは4試合連続で先発。通算7試合目の出場となった5月5日のジェフ市原戦では、終了間際に決勝弾となる初ゴールを決めた。
15歳11カ月28日のJリーグ最年少得点記録は、おそらく未来永劫に更新されることはないだろう。直後にヴェルディとプロ契約を結んだ森本を待つ未来を、日本サッカー界に関わる誰もが期待した。
2006年夏には、18歳にしてセリエAのカターニアへ期限付き移籍。1年後には完全移籍に切り替えられたが、7ゴールをあげた2008‐09年シーズンをピークに、活躍を報じるニュースはなかなか伝わってこない。
■中東のチームに活路を見出だす
その間、2008年の北京五輪と2010年のワールドカップ南アフリカ大会に臨む日本代表に招集された。しかし、前者は2試合で無得点、後者は4試合を通じて一度もピッチに立てなかった。
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北京五輪で日本代表に
時間の経過とともに、カターニアでの出場機会も激減していく。セリエAへ昇格したノヴァーラから再びカターニアへ復帰し、2013年1月にはアラブ首長国連邦(UAE)の強豪アル・ナスルへ期限付き移籍を決意する。
日本人選手が中東のリーグでプレーした例は過去にない。当時の森本がそれだけピッチに立つ機会と、ゴールという結果を渇望していたかが伝わってくる。
アル・ナスルでは13試合で6ゴール。グループリーグで姿を消したACLでも、3ゴールと気を吐いた。異国の地での活躍が認められ、ジェフへ完全移籍で加入したのは2013年シーズンの夏だった。
悲願のJ1昇格へクラブを加速させる役割を託された森本だったが、1年目は2ゴールに終わる。2014年シーズンこそ10ゴールをあげたものの、2015年シーズンは5ゴールに終わった。ジェフは今シーズンもJ2を戦う。
イタリア時代の後半から、度重なるケガに悩まされてきた。ジェフでの3シーズン目も然り。もがき苦しむ姿をしかし、フロンターレ関係者は「力を持て余していたのではないか」と見ていた。
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イタリアのカターニア時代はケガに悩まされた
「日本のサッカーとのギャップもあったでしょうし、周りも彼を上手く使えなかったということもあるかもしれない。ただ、ゴールを奪うという部分では、相手の最終ラインの裏へ抜け出す動きを含めて能力は非常に高い。彼にとっては地元ということもあるし、ウチは攻撃的でパスもどんどん出てくるので。きっかけをつかんでくれれば、可能性は大いにあると期待しています」
【元祖怪物・森本貴幸が新天地フロンターレで抱く期待感と危機感 続く】