■満室なので「友だちの家に泊まりなさい」
フランスは世界随一の観光大国なので、ホテルに宿泊予約が通ってなかったり、なにかのトラブルで当てにしていた部屋がなかったりすることはめったにない。めったにないが30年もツール・ド・フランスを取材していると、たまに不思議な事態に遭遇する。
たとえば20年ほど前の話。予約もなしに飛び込んだホテルは運悪く満室だったが、とても親切なことに20km先にある民宿に電話して部屋を確保してくれた。
ところがそこを訪ねてみると、「でもここは満室なのよ。友だちの家に泊まりなさい」と言うのだ。結局その民家に移動することになるのだが、案内してくれた部屋は重厚な家具がしつらえてある立派なもの。水回りはインテリアのモデルルームみたいに居心地いい。
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「ここが気に入らなかったら、屋根裏に子供が使ってた部屋があってよ」
いやいやとんでもない。ふかふかのベッドでぐっすり。夜空を見上げれば北斗七星がきらめく。それほど闇が深いのだ。
朝になって気がついたが、居間には牧牛のコンテストで獲得したトロフィーがずらり。彼らの新婚時代の写真や、巣立っていった子供たちの写真も飾ってある。
■なじみの農家に泊まる
フランス西部のバンデ県は自転車競技の盛んなところで、それだけにツール・ド・フランスが訪問することがい。ここに、もう何回もお世話になっている農家がある。
ネット予約なんてなかった時代は、農家の夫婦と手紙を2回ほどやり取りして部屋を確保してもらった。おそらくこの夫婦の人生で、海外に手紙を出す機会なんて2回しかないはずだ。郵便局員が国際用の封書に手紙を入れ直して日本まで送ってくれたのだ。
地平線まで広がる麦畑の中の一軒家。部屋は中世の古城のように手入れされていて、王様になった気分で眠りに落ちることができる。ところが2~3年後に訪問してみると、いつもニコニコして迎えてくれるご主人がいない。
「昨年他界したのよ。私はもうさみしくて…」と奥さん。
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東日本大震災で福島第一原子力発電所が制御不能に陥ったとき、もう日本を捨ててどこかに移住しないといけないかなと思ったときがある。そのときに頭に浮かんだのがこの麦畑の中の一軒家だった。近隣の人と近所づきあいできるかな?とか、仕事はどうしようとかちょっと本気で考えた。
農家を旅立つ日。その日はこの家の前をツール・ド・フランスが通過するはずだが、スタートからゴールまで別ルートを行くボクはもう二度と立ち寄ることはなかった。
出発前に隣の家(といっても5km離れている)の親子が訪ねてきた。10歳の男の子は自転車競技のプロになりたいと夢を話してくれたので、「だったらプロになった君に日本で会えるかな」と言ったら、「でも明日ってわけにはいかないな」と真剣な表情で応えてくれた。