だからこそ植田の気持ちを理解し、行動をともにした。セレモニーの音頭取り役を託した理由も然り。トロフィーを掲げる植田の雄々しい姿が、復興を目指す熊本の力になると背中を押したのだろう。
「僕の家族や友だちを含めてたくさんの人がアントラーズを応援してくれたし、そういう人たちへこの優勝を届けられたことは、本当によかったと思います」
植田はあらためて小笠原への感謝の気持ちを口にしたが、川崎フロンターレとのデッドヒートを制したファーストステージの軌跡を振り返れば、立役者のひとりにあげられる活躍を演じてきた。
■U-23日本代表でも存在感を見せる
センターバックとして15試合に先発してフル出場。欠場した2試合はU-23日本代表に招集され、5月下旬にフランスで開催されたトゥーロン国際大会に出場したことに伴うものだった。
そして、アントラーズが許した失点はわずか「10」。もちろんリーグ最少で、2位のフロンターレとサガン鳥栖に「5」もの差をつけている。完封は半分を超える9試合で、植田はそのうち8試合に出場している。
最終ラインで文字通り壁となって相手の攻撃をはね返し、圧倒的な存在感で畏怖させた。前半に奪った2点のリードを守り、優勝を決めたアビスパ福岡戦を観戦した村井チェアマンも植田を絶賛している。
「あの若さで、あの堂々たる戦いぶり。危ないところもなかったですね」
昨シーズンのセカンドステージは出場わずか2試合、151分間にとどまっていた。ベンチ入りすら果たせない試合が「6」を数えるなど、高さと強さをもてあます状況が続いていた。
ターニングポイントが訪れたのは今年1月。「23歳以下のアジア王者」という肩書を添えたうえで、リオデジャネイロ五輪切符を獲得したU-23アジア選手権でくぐりぬけてきた死闘の数々にある。
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U-23日本代表での植田 (c) Getty Images
手倉森誠監督に率いられたU-23日本代表の前評判は、残念ながら芳しいものではなかった。年代別の世界大会を経験した選手が少ないがゆえに、五輪への連続出場が5大会で途切れるとさえ危惧された。
しかし、U-23北朝鮮代表とのグループリーグ初戦を、最後は防戦一方ながら1-0でものにすると、破竹の快進撃が幕を開ける。開始5分に虎の子のゴールを決めたのは植田だった。
決勝トーナメントではU-23カタール代表を延長戦の末に、最大の強敵だったU-23イラク代表を終了間際の劇的ゴールで連破。U-23韓国代表との決勝では、2点のビハインドをはね返して頂点に立った。
カタールの地から凱旋した植田が漂わせる雰囲気は、明らかに出発前と変わっていた。プレッシャーを背負いながら確固たる結果を残したことで、くすぶっていた自分自身への不安が自信へと昇華したのだろう。
そして、植田はチームから打診されたオフを返上したうえで、自分自身にノルマを課しながら、すでに始まっていたアントラーズのキャンプに合流する。
「アントラーズで試合に出られなければ、リオデジャネイロ五輪の代表に選ばれる可能性も低くなる。本当に大事なのはこれから。オリンピック本番はオーバーエイジもあるし、再び競争も始まる。まずはアントラーズでスタメンを張って、しっかりと結果を出したい」
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