すでに地元山形ではモンテディオ山形がJ2を戦っていた。ベガルタ仙台ジュニアユースの入団テストも受け、合格内定ももらっていたが、より高いレベルでプレーしたい思いが最終的には上回った。
■背番号「8」
アントラーズのジュニアユースの入団テストに合格すると、母親の栄美さんとともに茨城県鹿嶋市に移住。ユースに昇格してからはアントラーズの選手寮に入り、完全に親元を離れて夢を追い続けた。
トップチームに昇格したのは、鹿島学園高校を卒業した2011シーズン。同期には後に日本代表に招集されるMF柴崎岳とDF昌子源がいた。アントラーズのフロントは、1992年生まれの柴崎、昌子、そして土居にごく近い将来、チームの屋台骨を託す青写真を描いていた。
迎えた2014シーズン。4年目の土居はリーグ戦で全34試合に出場し、トップ下のポジションでチーム3位タイとなる8ゴールをマーク。2015シーズンからは背番号「8」を託された。
Jリーグが産声をあげた1993シーズンからトップリーグで戦ってきたアントラーズは、背番号を非常に大事にする。神様ジーコの象徴だった「10」は、固定背番号制となった1997シーズン以降はビスマルク、本山雅志(現ギラヴァンツ北九州)、いま現在の柴崎しか背負っていない。
たとえば「2」はジョルジーニョ、名良橋晃、内田篤人とレジェンドとして名前を連ねる右サイドバックが背負い、2010年7月に内田がシャルケへ移籍した後は空き番となって、次なる持ち主を待っている。
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土居聖真 (c) Getty Images
ならば「8」はどうか。マジーニョやセリエAへ渡る前の小笠原満男、野沢拓也(現ベガルタ仙台)、ジュニーニョらの攻撃的MFもしくはフォワードの象徴となってきた歴史が、土居への期待の大きさを物語る。
しかし、好事魔多し。昨年10月3日。敵地で行われたヴィッセル神戸戦の後半開始早々に、相手GK徳重健太と交錯した際に足を踏まれた土居は負傷退場を余儀なくされる。
試合後の精密検査の結果は左足第2中足骨の骨折。全治3カ月と診断され、ゴール数は「6」のまま、残りのリーグ戦4試合を棒に振らざるを得なくなった。
悪夢はまだ終わらない。左足が完治した矢先の今年2月。シーズン開幕へ向けた宮崎キャンプの練習中に、今度は右ひざのじん帯を痛めて再び戦列を離れてしまう。
「サッカーができない状況にストレスを感じていたし、開幕戦でメンバーに入れなかったように、コンディションも完全ではないところから今シーズンは始まっていたので」
■ケガから学ぶ
ガンバ大阪との開幕戦はベンチ外となり、サガン鳥栖との第2節はリザーブのまま試合終了を迎えた。ベガルタ仙台との第3節こそ後半18分から途中出場したが、チームは得点を奪えないまま初黒星を喫する。
第6節のサンフレッチェ広島戦から4試合連続で先発。その間に2ゴールをマークするも、第10節のアルビレックス新潟戦からは再びリザーブとして途中出場が続いた。
イメージとかけ離れたプレー。チームに貢献できないもどかしさ。心身のリズムがかみ合わず、焦燥感を募らせた日々が結果的にプラスになったと土居は振り返ったことがある。
「そうしたなかでも、サッカーがやりたいと強く思えたところがよかったのかなと。ケガが治ってもなかなかコンディションがあがらず、思い通りのプレーができなかったときは確かに悔しかった。自分自身に対して苛立ちも覚えたけど、そうしたときにふて腐れることなく、純粋にサッカーへぶつけられた。
ケガをしたのは自分自身の責任。ケガで長期間離脱するのは自分のサッカー人生のなかで初めてのことだったけど、すごくいい経験になったというか。ケガをすること自体はいいことではないけど、僕にとっては自分を変えるできごとだった。いまではそう思える」
心と体がようやくシンクロしたのだろう。ヴァンフォーレ甲府との第14節で先発に復帰すると、いきなり先制&追加点をマーク。最終節までの4試合で4ゴールを量産し、逆転優勝に大きく貢献した。
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