【THE REAL】日本代表・長友佑都が蘇らせる記憶…豊田スタジアムから始まるロシアへの新たな一歩 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【THE REAL】日本代表・長友佑都が蘇らせる記憶…豊田スタジアムから始まるロシアへの新たな一歩

オピニオン コラム
長友佑都 参考画像
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豊田スタジアムのピッチから感じる不思議な縁


豊田スタジアムのピッチに長友佑都(インテル・ミラノ)が立つのは、アルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表が0‐2でブルガリア代表に苦杯をなめた、2013年5月の国際親善試合以来となる。

約4年5ヶ月前のほろ苦い一戦からさらにさかのぼると、2012年2月のウズベキスタン代表戦、2010年3月のバーレーン代表戦をへて、2008年5月24日のコートジボワール代表戦に行き着く。

敵地マナマで伏兵バーレーンにまさかの黒星を喫した、ワールドカップ・アジア2次予選からの出直しを期した国際親善試合。当時の岡田武史監督は、バーレーン戦後にこんな言葉を残していた。

「これからはオレのやり方でやる」

病に倒れたイビチャ・オシム監督からバトンを引き継いで約5ヶ月。黒星とともに迷いが消え去ったのか。前任者の路線とメンバーを踏襲していた指揮官は言葉通りに、先発メンバーを7人も入れ替えた。

そのなかで左サイドバックとして、異例にも映る大抜擢を受けたのが長友佑都だった。当時は明治大学政経学部4年に籍を置きながらFC東京とプロ契約を結び、J1の舞台でデビューした直後だった。

「すごく親近感がわくスタジアムなんですよね。ここで日本代表にデビューさせてもらって、そんなに試合をしていないのに、何だかホームに帰ってきた感じがするんですよ」

さらに記憶を蘇らせると、いま現在は日本を指揮するバヒド・ハリルホジッチ監督が、コートジボワールを率いていたことに気がつく。不思議な縁を感じずにはいられない、とばかりに長友が苦笑いする。

「相手の戦術やプレーする選手を完璧にスカウティングする監督も、僕がプレーすることは予想できなかったでしょう。僕は対面の選手とかなりゴリゴリやっていましたけど、監督は覚えていないと思いますよ。覚えていたら、多分何か言ってくると思うので」


9年前のデビュー戦といまを比較して思うこと


その後の長友が描いた軌跡を見れば、岡田監督の慧眼が正しかったかがわかる。エースキラーとして大活躍した2010年のワールドカップ・南アフリカ大会後に、セリエAのチェゼーナへ移籍した。

そして、わずか半年足らずで名門インテル・ミラノへ期限付き移籍。さらに半年後には完全移籍に切り替えられ、8シーズン目のいまでは最古参選手となり、9月には通算200試合出場も達成した。

いまや名門インテルの最古参選手
(c) Getty Images

日本代表でも必要不可欠な存在となり、国際Aマッチ出場数も「97」にまで伸ばした。歴代のサイドバックでは初めてとなる3桁到達も時間の問題となった一方で、非情な現実も肌で感じている。

自身の原点でもあるコートジボワール戦に出場した13人の選手のうち、いま現在も日本代表に名前を連ねているのは、後半30分から途中出場したMF香川真司(当時セレッソ大阪)しかいない。

現所属のボルシア・ドルトムントで通算38ゴール目をマーク。ブンデスリーガ1部における歴代日本人得点記録のトップに立った香川もまた、コートジボワール戦がA代表でのデビュー戦だった。

しかし、件のコートジボワール戦で約2年半ぶりに代表復帰を果たし、以後、不動のボランチとして君臨してきた長谷部誠(アイントラハト・フランクフルト)は、10月シリーズに招集されていない。

長友より遅れて初招集され、その後は主軸を担ってきた本田圭佑(パチューカ)、岡崎慎司(レスター・シティー)の両FWも然り。くしくも3人は1986年生まれの31歳で、ともに切磋琢磨してきた。

「次は自分の番が来るんじゃないか、と。このユニフォームを、日の丸をつけてピッチに立てることがどれだけ誇りなのか、自分の中で名誉なことなのかを、あらためて感じている。だからこそ、この豊田スタジアムで試合に出たら結果を残せるように。コンディションもいいので、自信をもってやりたい」


ブラジルの地でなめた辛酸が導いた心の成長


長谷部は今年3月に手術した右ひざが考慮された。本田は新天地パチューカで出場時間を増やして、コンディションを取り戻せというハリルホジッチ監督の檄が込められての招集外だった。

今シーズンの公式戦で4ゴールと好調な岡崎が、どのようなプレーをするのかはわかっている。ゆえに今回は杉本健勇(セレッソ大阪)、武藤嘉紀(マインツ)の1992年組にチャンスが与えられた。

それぞれの事情はもちろんわかっている。それでも、フィールドプレーヤーでは最年長となったいま、目の前に待つ試合をひとつずつ、全力に戦っていきたいという思いがより強くなっている。

「足元をしっかり固めるための努力をどれだけできるか。もちろんロシア(大会の出場)も目指していますけど、まずは力強い一歩を踏み出さないと、そこにはたどり着けないと思っているので」

南アフリカ大会から4年後の2014年6月。日本のちょうど裏側にあるブラジルで一敗地にまみれた。絶対の自信を寄せていた「自分たちのサッカー」が通じず、未勝利でワールドカップから去った。

「ブラジルの前は力んでいましたよね、完全に。先ばかりを見て、ものすごくジャンプしようとしていた。一気に飛んでいきたいくらいの気持ちでしたけど、物事はそんなに簡単にはいかない。自信が過信に変わっていて、そこを相手に突かれて足元をすくわれたというか。

未勝利に終わったブラジル大会
(c) Getty Images

足元をしっかり固めないと、上手くいかなくなったときに崩れるのも早い。土台となる部分がどれだけ大事なのかが、あの(ブラジル大会までの)4年間で学んだ部分。いまはそういう経験もあってすごく落ち着いているし、冷静に物事を判断できる自分がいると思っています」

敗退が決まった直後は思わず男泣きした。苦笑いしながら「力んでいた」と振り返れるのは、心技体のうちの「心」が成長した証でもある。


ニュージーランド代表戦へ抱く決意と覚悟


日本代表入りして10年目を迎えた。最近になって、サッカーを始めた小学生から東福岡高校を卒業するまでの10年間は、日本代表にどのような思いを寄せていたのかを考えたことがある。

「当時は憧れの存在どころか、考えられないような位置にいる人たちでしたけど。そこに自分がいて、100試合に届くかもしれない。どこで何の奇跡が起きたのかと、人生は本当にわからないと思います。才能がなくても努力でやっていけるということを、子どもたちにも伝えたいですよね」

全国の舞台で結果を残せなかった長友は、スポーツ推薦ではなく指定校推薦で明治大学に入学した。しかし、入学後は椎間板ヘルニアに苦しめられ、応援団で太鼓を叩く役に回ったこともある。

転機はボランチからサイドバックへのコンバート。当初は拒否したポジションでのプレーが練習試合で対戦したFC東京の目に留まり、卒業を待たずしてのプロ契約へとつながった。

そして、FC東京での“火の玉小僧”のような激闘ぶりが、日本代表の指揮官をも魅了した。しかし、波瀾万丈に富んだ2008年以降のサッカー人生をセンチメンタルに振り返るつもりは、いまは毛頭ない。

左サイドバックには長友に加えて、左利きという長友にはない武器をもつ25歳の車屋紳太郎(川崎フロンターレ)が初招集された。ライバルの出現を長友は喜びとともに受け止めて、成長への糧に変える。

「結局は個人個人がレベルアップしていかないと。監督も新しい選手を呼んで刺激を与えて、チャンスも与えている。ギラギラした危機感のようなものが、チーム全体からも感じられるので」

6大会連続6度目のワールドカップを決めた日本代表が、ロシアへの新たな一歩を踏み出すニュージーランド代表との国際親善試合。長友にとって思い出深い豊田スタジアムで、6日午後7時20分にキックオフを迎える。

《藤江直人》

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