
ダカール・ラリーの主催者は1月10日(日本時間11日)、パリダカール・ラリーを3度制したユベール・オリオールが亡くなったと発表した。死因は近年患っていた心臓疾患によるものとされるが、新型コロナウイルスに罹患していたという情報もある。
1952年、エチオピア・アジスアベバ生まれのオリオールは1973年からオートバイによる耐久レースに参加、1979年からパリダカール・ラリー(現ダカール・ラリー)参戦すると1981年と83年にBMWを駆り、モト・カテゴリーを2度制した。しかし、オリオールがパリダカの伝説、パリダカの英雄と謳われたのは87年のレースによる。

パリダカの伝説的英雄と讃えられたオリオール(右)、左はフランスの耐久レーサー、フィリップ・モネレット (C)Getty Images
この年、カジバで参戦していたオリオールは、ホンダのシリル・ヌブーとデッドヒートを繰り広げた。残り2日の時点で首位に立ち、2位のヌブーに約10分の差。
しかし、一筋縄で終わらない点がパリダカたる所以。オリオールはレース中に木に激突、両足を骨折するという不運に見舞われる。彼は激痛と戦いながら最終チェックポイントまでマシンを走らせ、ゴールしてみせた。この年、結果的にヌブーが優勝を飾るが、パリダカが勝者だけのためのレースではないという特異制を体現し、伝説的英雄となった。最終チェックポイントにオリオールがゴールするシーンは、今でも深く脳裏に刻まれている。
パリダカ最終日はレースではなく「ビクトリーラン」と呼ばれる完走者全員を称えるイベントである点を踏まえれば、まさにこの最終レースさえ乗り切れば、3度目の制覇となったはず。事故の時点で優勝の夢を絶たれていた可能性は大だったにもかかわらず、完走を成し遂げた点、称賛を集めた。
このエピソードをオンエアで目の当たりにし、サーキットでの耐久レース経験がある私にとっても、砂漠のオフロード耐久レースは、別次元の偉業に思えたものだ。
オリオールはその後、四輪でパリダカに参戦。1992年にはパジェロを駆り総合優勝。三菱パジェロのパリダカ黄金期を支えたひとりとなった。なお、二輪および四輪の両カテゴリーでパリダカの頂点に立った最初の英雄でもある。

オリオールは、三菱パジェロの黄金期を支えたひとりでもあった (C)GettyImages
ちなみに、トヨタ・セリカを駆り94年に世界ラリー選手権(WRC)を制し、日本でもその名を知られるディディエ・オリオールと血縁関係はない。
94年から2004年までは主催者としてレースディレクターも務めたため折しも、2021年のダカール・ラリー開催の真っ只中での死去に一時、現地で事故死の憶測も流れた。
また、ひとり英雄が、歴史の証人が天に召された。冥福を祈る。
著者プロフィール
たまさぶろ●エッセイスト、BAR評論家、スポーツ・プロデューサー
『週刊宝石』『FMステーション』などにて編集者を務めた後、渡米。ニューヨークで創作、ジャーナリズムを学び、この頃からフリーランスとして活動。Berlitz Translation Services Inc.、CNN Inc.本社勤務などを経て帰国。
MSNスポーツと『Number』の協業サイト運営、MLB日本語公式サイトをマネジメントするなど、スポーツ・プロデューサーとしても活躍。
推定市場価格1000万円超のコレクションを有する雑誌創刊号マニアでもある。
リトルリーグ時代に神宮球場を行進して以来、チームの勝率が若松勉の打率よりも低い頃からの東京ヤクルトスワローズ・ファン。MLBはその流れで、クイーンズ区住民だったこともあり、ニューヨーク・メッツ推し。
著書に『My Lost New York ~ BAR評論家がつづる九・一一前夜と現在(いま)』、『麗しきバーテンダーたち』など。