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「プレーヤーにとって、引退とはもうひとつの死のようなものだ」。
これはかつて、あるメジャーリーガーが語った言葉だ。
どれほど素晴らしい成績を残しても、輝かしい栄光をつかんでも、アスリートの命は永遠ではない。
肉体的な衰え、重なる故障、気力の減退、若い世代の突き上げ、理想の自分との乖離……さまざまな要因から「ユニフォームを脱ぐ日」を誰もがイメージするものだ。だが、その「いつか」はできる限り先延ばしにしたい――。それがすべてのプレーヤーの本音だろう。
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■松坂が最後の登板前に吐露した思い
2021年7月7日に現役引退を発表した西武・松坂大輔は、球団から記者会見を促されても表には一切出てこなかった。
10月19日、最後の登板前に行われた記者会見の冒頭で、松坂はこう語った。
「選手は誰しも、長くプレーしたいと思い、こういう日がなるべく来ないことを願っていると思うんですけど。(僕も)今日という日が、来てほしいような、来てほしくなかったような、そんな思いがあったんです」。
引退会見をこの日まで延ばしたのには理由があった。
「僕自身が(引退を)発表したものの、なかなか受け入れられなかった。気持ちが揺れ動いているというか……」。
しかし、横浜高校で3年間、その後23年間もプロ野球で酷使してきた体は限界を超えていた。右手と首にしびれが出ては、満足なピッチングができるはずがない。「(引退を)発表してから『やれそうだな』と思った日は一度もなかった」と語っている。
■肩を痛めてからは「投げ方を変えざるをえなかった」
肩に異変を感じたのはメジャーリーグのボストン・レッドソックス時代、2008年5月のことだった。遠征先のオークランドで、ロッカーからブルペンに向かう途中で足を滑らせた。
「とっさにポールのようなものをつかんだんですけど、その時に右肩を痛めてしまって、そのシーズンは大丈夫だったんですけど、オフからいつもの肩の状態じゃないと思いだして」。
それからは、痛くない投げ方、痛みが出ても投げられる投げ方に変えざるをえなかった。
「だから、もうその時には、自分が求めるボールは投げられてはいなかったですね。その時その時の最善策を見つける、その作業をしていました」。
■復帰を目指す日々と心ない批判
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登板前に行われた記者会見での松坂大輔(提供:西武ライオンズ)
1999年に西武でデビューした松坂は、3年連続で最多勝利のタイトルを獲得。8年間で108の勝利を積み上げ、メジャーリーグに戦いの場を移した。2007年は15勝をマークして、レッドソックスのワールドシリーズに貢献。2008年には18勝を挙げた。
しかし、肩を痛めてから松坂のキャリアは下降線をたどることになる。2014年までメジャーリーグで戦ったものの、勝ち星は4、9、3、1、3、3に終わっている。2011年には右ひじにメスを入れた。
その後、日本球界に復帰。3年間在籍したソフトバンクでの一軍登板は1試合だけ。2018年に移籍した中日で6勝をマークしてカムバック賞を受賞したが、古巣である西武に復帰したあとはこの日まで登板の機会がなかった。
その間、松坂に対するバッシングも多かった。故障からの復帰を目指す日々、心ない批判がどこからともなく聞こえきて、松坂を苦しめた。本人は言う。
「叩かれたり批判されたりすることに対して、それを力に変えて『跳ね返してやろう』と思ってやってきました。でも、最後はそれに耐えられなかったですね。もう心が折れたというか、今まではエネルギーに変えられたものが、受け止めて投げ返す力はなかった」。
■「最後の最後、全部、さらけ出して見てもらおうと」
10月19日。本拠地でマウンドに上がった松坂の背中には、かつて背負った18番があった。横浜高校の後輩である日本ハム・近藤健介に投じたのはわずか5球、最後の一球が近藤の体のほうにそれてフォアボール……。
「本当は投げたくなかったですね。もうこれ以上ダメな姿を見せちゃいけないと思っていたんですけど、最後にユニフォーム姿でマウンドに立っている松坂大輔を見たいと言ってくれる方々がいたので、どうしようもない姿かもしれないですけど、最後の最後、全部、さらけ出して見てもらおうと思いました」。
高校時代に甲子園で春夏連覇を果たし、プロ野球で114勝、メジャーリーグで56勝。日米通算170勝108敗という成績を残してユニフォームを脱いだ。
「長くやった割には……と思います。通算勝利も170を積み重ねてきましたけど、ほぼ最初の10年でやってきた数字。長くプレーさせてもらいましたけど、半分以上は故障との戦いだった。最初の10年があったから、ここまでやらせてもらえたと思っている。僕みたいな人はなかなかいないんじゃないですか。一番いい思いと、どん底も同じくらい経験した選手はいないかもしれない」。
■大エースの、ウソ偽りのない“最期”
この日の最速は118キロだった。プロ初登板で155キロのストレートを投じた松坂ではもうなかった。
「本来ならマウンドに立つ資格がないというか、立てるような状態ではなかったんですけれども。これまで応援してくれた方々に対して、感謝の思いを込めて投げることで、今日の機会を持って自分自身へのけじめをつけたいと思いながらマウンドに立ちました」。
半世紀にわたって日本の野球ファンを楽しませてきた大エースの、ウソ偽りのない“最期”だった。
「なかにはまだ投げてほしいと言ってくれる方々もいたんですけど、もうその声には応えられないというのを、改めて投げることで報告できたのかなと思います」。
松坂大輔はもう、対戦相手を震え上がらせた怪物ではない。プロとしてのボールも投げられない。だが、西武のチームメートや日本ハムの後輩たちに胴上げされた彼の顔には笑みが浮かんでいた。
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(提供:西武ライオンズ)
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著者プロフィール
元永知宏●スポーツライター1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て独立。
著書に『期待はずれのドラフト1位』『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』『近鉄魂とはなんだったのか?』(集英社)、『プロ野球を選ばなかった怪物たち』『野球と暴力』(イースト・プレス)、『補欠のミカタ レギュラーになれなかった甲子園監督の言葉』(徳間書店)、『甲子園はもういらない……それぞれの甲子園』(主婦の友社)など。