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MMSP(三菱自動車モータースポーツ)が満を持して2004年世界ラリー選手権 (WRC)開幕戦から投入した「ランサーWRC04」は、ランサー・エボリューションの縛りから放たれた斬新なスタイリングで登場した。だが三菱がWRCで優位性を築いてきたアクティブ・デフは搭載せず、トランスミッションも5速Hパターンマニュアルというもので、進化ならぬ退化とも思えた。簡素なメカニズムは将来の規定厳格化 (デバイス制限) も想定したものとの説明はあったが、信頼性の確認という掲げた目的にも遠く、ライバルの後塵を拝し続けてしまう。
◆【三菱ラリーアート正史】第3回 グループAからワールド・ラリーカーへ そして突然の体制変更
■MMSP、ラリーアート、モータースポーツ部のトロイカ体制での再構築
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ランサーWRC04サイドビュー(C)三菱自動車
効率を重視するあまり、ラリーカー開発のヨーロッパ圏内での完結に固執したことの弊害ではなかったかと、私は見ている。WRCではフォードやヒュンダイがラリーカー開発に長けた外部のファクトリー組織をワークスチームとして指名し活動させている (かつてのスバルもそうだ) が、それに近い形態を求めたのかもしれない。だがそれは直系組織のMMSPが採るべき手法ではなかっただろう。スヴェン・クワント氏はWRC実戦部隊とメーカー本体の距離を、結果的に遠くしてしまった。
独善的にも見えたMMSPの同氏の指揮も、長くは続かなかった。三菱は日本のファン待望のラリー・ジャパンを前にシーズン途中で再び参戦を休止し、ランサーWRCの改良に徹することになる。
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2004ラリー・ジャパンのために用意されたグッズのバンダナ(筆者提供)
直後、MMSPの体制はダイムラー・クライスラーの経営からの撤退に伴い日本側が主導することとなり、クワント氏は代表の座を退く。MMSPの設立に三菱社内で動いたのはダイムラー・クライスラーから派遣されたマーケティング担当副社長だったため、同氏は後ろ盾を失った形だから当然と言えば当然だろう。
本稿において厳しい表現とならざるを得ないが、世界を視野にしていたクワント氏と、地方の販売会社で販促企画にあたっていた当時の私とではスケールは違いすぎるものの、「モータースポーツは販売に貢献する」という発想・理念は共通していたと思っている。クワント氏はMMSP代表退任後自身のモータースポーツ事業であるX-Raidに復帰し、BMW MINIでのダカールラリー・プロジェクトを成功に導いた。2022年はハイブリッド車でダカールラリーに初挑戦したAudiチームの指揮を執っており、モータースポーツに対して変わらぬ熱意で才覚と手腕を発揮されていることをお伝えしておきたい。
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三菱自本社に先んじて企画し開催された販売会社主催のランサー・エボリューション大規模試乗会で陣頭指揮を執るレーシング・スーツ姿の筆者 (2001年2月)
2004年12月に開催されたモータースポーツ体制発表会で三菱自動車のモータースポーツ活動は日本人社員をトップに据えたMMSP、ラリーアート、モータースポーツ部のトロイカ体制での運営へと再構築された。三菱自動車商品統括・貴島彰代表取締役常務や中山修モータースポーツ部長、MMSP・鳥居勲社長、ラリーアート・田口雅生社長らの語る三菱自動車の新しいモータースポーツのビジョンに、前年に三菱自動車を離れていた私も感動を抑えられなかった。
ランサーWRC05(C)三菱自動車
同時に公表された新型ランサーWRC05には、それまで目立たぬように配されていた「RALLIART」のロゴがスリーダイヤを支えるように大きく配置された。ドイツ主導時代のスリーダイヤに「MITSUBIHI MOTORS Motor sportS」とだけ添えられたシンボルマークが廃され、モータースポーツを走る実験室として商品を鍛え、そのプロセスと結果で販売促進に貢献するという、ラリーアート設立時の原点に立ち返ったことを示すかのようなマークであった。
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2005年からのユニフォーム (筆者提供)
細かい点を言えばマシン開発だけでなく、95年以降WRC、パリダカとも順次ラリーアートからの供給に置き換わっていたチームのユニフォームでさえ日本から調達しなくなっていたMMSPだったが、2005年からは再びラリーアートからの供給に戻された (スポンサーとなるスポーツ用品メーカーのものも一部存在した)。
社員時代グラスルーツレベルながら多くのモータースポーツカテゴリーに三菱車で関与した私は、当然ラリーアート製のウェアをまとい各地で汗と油にまみれた。そういった経緯からラリーアートの商品づくりに意見を求められることも少なくはなかった。モータースポーツの現場での使い勝手や見栄えなどからのデザイン変更提案も幾度か採用いただいたりと関係の深い部門だっただけに、2005年体制からのユニフォームにスリーダイヤをRALLIARTが支えるようにリデザインされたシンボルマークを目にした直後、嬉しさのあまりラリーアートの商品担当者にすぐさま電話を入れたほどだ。電話の向こうの声からは、RALLIARTのロゴがスリーダイヤとともに配置される主役の座に返り咲いたことの喜びが伝わってきた。
そのマークに多くの関係者が思いを込めたとおり、ラリーアートとは、三菱自動車にとって一体不可分の存在だったと今でも思っている。
■槍騎兵(Lancer) との訣別、そして終焉
センターデフをアクティブ化するなどモータースポーツ部によるアップデートが奏功しランサーは、トップに伍して戦う力を見せ始めていた。だが、三菱自動車は「ターンアラウンド計画」と名づけた経営再建を最優先に、WRCから2005年限りで撤退。2006年以降はプライベーターに貸与するランサーWRCの支援という名目で最小限の活動は存続したものの、当初WRC復帰の時期とアナウンスされた2008年にもそれがかなうことはなかった。
ダカールラリーに注力することになった三菱は、環境対策の先行技術開発のひとつでもあったディーゼル・エンジン (競技規則上も優遇されていた)をパジェロエ・ボリューションMPR14に搭載して2008年のパリダカに投入予定だったが、同大会はテロ予告でスタート前日に中止となる。
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パジェロエボリューションMPR14 貴重なディーゼルプロト(提供:村田竜一)
翌2009年、南米開催となったダカールラリーに三菱はパジェロに変わるレーシング・ランサーMRX-09(ランサースポーツバック=日本でのギャラン・フォルティス・スポーツバックをイメージさせるボディーワーク)にディーゼル・エンジンを搭載して出場するが、リーマンショックによる世界的経済危機が影を落とし、2009年のレーシング・ランサー最初の参戦をもって三菱自動車のワークス・モータースポーツ活動は終了する。
三菱自動車の現況と照らし合わせ、モータースポーツ(ヨーロッパの拠点、すなわちMMSP)に多額の予算を割くのは適切ではないという経営判断だった。実動部隊を完全子会社としたままのMMSP自体は単体で利益を生む組織ではなく、わずか数年前にクワント氏の構想した通りの「マーケティングからのリターン」は (経済危機はあったとしても) 貢献と言えるレベルにもなかっただろう。ゆえに、その判断は至極当然のものだったと私は思っている。
だが、その翌年3月、株式会社ラリーアートも幕を閉じた。まだ三菱車を必要とする数多い内外のプライベーターやファンに惜しまれつつ。このときばかりは私も自分の青春まで無残に打ち砕かれて捨てられたように感じた。悲しみと怒りが入り混じった、たとえ様のない感情だ。
三菱自動車のモータースポーツの実戦活動の根幹をその初期から成し、株式会社ラリーアートの設立以降はワークスチームとしての権能を返上しながらもセミワークス的クラブマンチームとなっていたコルト・モータースポーツ・クラブ(CMSC)も大きな影響を受けた。
2010年4月以降はラリーアート元マネージャーの須賀健太郎氏ら関係者の尽力で、三菱モータースポーツの原点たる「コルト」その名のままに在野のクラブマンチームとして再スタートする。
三菱WRCチーム元総監督・木全巖(きまた・いわお)CMSC会長はその任に留まり、木全会長の逝去後はラリーアート最後の社長・田口雅生氏を会長としたことからも分かるとおり、CMSCは野にあってもラリーアートが掲げた「The Spirit of Competition」、三菱モータースポーツのスピリットを継承した。
CMSCは全日本選手権を始めとするモータースポーツ・フィールドで活躍を続けた。もう手に入らなくなったRALLIARTのステッカーをあらん限り集め、ランサーに、ミラージュに貼り続けた。砕けてしまったダイヤモンドの、その欠片を守るために……。人々からラリーアートの記憶が薄れ行く中でも、来るべき日を信じて……。
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ラリーアートHP、惜別のメッセージ スクリーンショット
◆【三菱ラリーアート正史】第5回/最終回 モータースポーツの新たなる胎動 そして復活への第一歩
◆【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る
著者プロフィール
中田由彦●広告プランナー、コピーライター
1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。