【スポーツビジネスを読む】公益社団法人日本プロサッカーリーグ佐伯夕利子・元理事 前編 「サッカーで生きる」と決意するまで  | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【スポーツビジネスを読む】公益社団法人日本プロサッカーリーグ佐伯夕利子・元理事 前編 「サッカーで生きる」と決意するまで 

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【スポーツビジネスを読む】公益社団法人日本プロサッカーリーグ佐伯夕利子・元理事 前編 「サッカーで生きる」と決意するまで 
【スポーツビジネスを読む】公益社団法人日本プロサッカーリーグ佐伯夕利子・元理事 前編 「サッカーで生きる」と決意するまで  全 1 枚 拡大写真

スペイン在住の佐伯夕利子さんが2018年3月、公益社団法人日本プロサッカーリーグJリーグ)の理事に就任されたというニュースを目にした際、「日本のスポーツ界も捨てたもんじゃない」と嬉しい驚きを覚えた。

ご存知の通り日本社会、特に日本のスポーツ界は、これまでの業界トップによる数々の問題発言に見られる通り「ジェンダー・イコーリティ」などというスタンダードからはほど遠く、またその島国根性に起因する閉鎖性たるや昭和の悪しき風習を「いったいいつまで引きずるのか」と暗澹たる気分にさせるほどだ。

日本スポーツビジネス界の最高峰であるJリーグが、スペインで活躍する女性を理事に据えるなど、一筋の光明にさえ見えたものだ。佐伯さんはさる3月に理事を任期満了で退任。コロナ禍ながら、その直前に話を伺うことができた。

佐伯夕利子(さえき・ゆりこ)

●Jリーグ元常勤理事、ビジャレアルCF、WEリーグ理事

スペインサッカー協会ナショナルライセンス。UEFA Proライセンス。03年スペイン男子3部リーグの監督就任。04年アトレティコ・マドリード女子監督、育成副部長。07年バレンシアCF強化執行部に移籍、国王杯優勝。08年ビジャレアルCFと契約、U19やレディース監督を歴任。18〜22年Jリーグ特任理事、常勤理事。著書に『教えないスキル 〜ビジャレアルに学ぶ7つの人材育成術〜』(小学館)

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■「One of Them」を避けるため、スペインへ

佐伯さんはイラン・テヘランの生まれ。ご両親のお仕事の関係でその後、台湾で育ち一時は日本に帰国したものの、また転勤にともないスペインへ。以来、スペイン在住として活躍されている。昨今、日本でもかまびすしい国際的「ダイバーシティ」を体現する方ゆえ、私のような純粋日本育ちからすると羨ましいほどの経歴である。

しかしその点をご本人に訊ねるとポジティブな捉え方ばかりではないようだ。

「実は思春期の頃まで、テヘラン生まれや台湾育ちはむしろマイナスに捉えていたんです。『帰国子女』とは英語圏から帰国した方々を指すと思っていたもので、私自身は帰国子女とは言えないかと…。もちろん、大人になって自分の中にある多様性の豊かさに気づくので、今はありがたいと考えていますが…」と、ややコンプレックスに感じていた時期さえあったという。

ビジャレアルのU19や女子を監督として指揮した佐伯夕利子さん  写真:本人提供

高校時代を日本で過ごし付属校だった点も手伝い、そのまま日本での大学進学が決まっていた。しかし父親のスペイン転勤が決まり選択肢を与えられた際、迷わず大学進学を辞め、両親について行くと決断をくだした。

「何がそうさせたのか……改めて考えると私は『自分でしかない自分でいたい』という思いを小さい頃から抱えていて、『One of Them』になってしまうのがすごく怖かったんです。その恐怖は、他の子どもたちよりも、ひと一倍強かったように思えます。日本で普通に女子高生として暮らし、そのままぬくぬくと大学に進学して行く自分の将来がなんとなく見え始め、一抹の不安を感じました。そうした背景がスペイン行きを決めさせたと思います」。

日本で育つとむしろ「普通であること」、おそらく「One of Them」であることこそが善であると教育される。やはり、佐伯さんの中にあらかじめ存在していた多様性が、決断の時、「普通」を許さなかったに違いない。

■「サッカーがやりたい!」

野球に惹かれた時期もあったというが、「両親とデパートなどに出かけると、おもちゃ売り場に魅力を感じなくて、いつもスポーツ売り場で待っていたんです。どのスポーツ用具もすごくかっこよく見えました。小学2年生の時、あの革がつるつるした感触で重たくて大きなサッカー・ボールに出会い『サッカーがやりたい!』と思ったんです。ちょうど『少年ジャンプ』で『キャプテン翼』の連載が始まるか…ぐらいの頃、両親も『女の子がサッカー?』という時代でした。でも、サッカー・ボールを買ってもらい、サッカーのテキストを片手に、ひとりで校庭の壁に向かってボールを蹴る……そんな変な女の子でした」とサッカーとの出会いを振り返る。

その1年後、やっと少年団に受け入れてもらえることになり、サッカーを始めることができた。その時の嬉しさは、今も佐伯さんの原体験にあるという。その後、転校で台湾に。さらに日本に帰国した際、中学校に編入となった。

「現在も日本では同じ問題を抱えているんですが、ちょうど中学生ぐらいの女の子がサッカーをプレーする機会がないんです。高校になると増えるんですが、今も中学ではその機会がなく、私もすっかりその罠にハマり一旦、サッカーを諦めました」と泣く泣く中学、高校ではサッカーを『忘れる』努力をしていたという。中学ではソフトボール部、高校ではゴルフ部に所属していた。

18歳でやって来た転機。「父の転勤先、そこに何があるかわからないけれども『自分でしかない自分になれる!』と直感で決断しました」とスペイン行きを決めた。

アトレティコ・マドリード女子監督、育成副部長などを歴任 写真:本人提供

スペインに住み始め3カ月ほどが経過した頃、佐伯さんにある課題が持ち上がった。両親と同居している点が足かせになり、他の留学生と比較しスペイン語の上達で遅れをとっていた。これを心配した両親がカウンセリングを利用したところ、「地元の団体スポーツに入ると語学を学ぶに一番効果的」とアドバイスを受けた。佐伯さん、それを聞いた時に「これだ!」と閃いた。

スペインと言えば、もちろんサッカー大国。佐伯さんは「近所に女の子でもサッカーできる環境がきっとあるに違いない」と電話帳をひっぱりだし、サッカー協会を探し当てた。まだ片言だったので、しっかり台本を用意し、電話。「私は18歳の日本人です。サッカーがしたいです」と。しかし残念ながら片言では要件を果たすことができず、「まずは協会のオフィスに来られないか」という顛末に。

■「私にはサッカーしかない!」と決意

佐伯さん、今度は地下鉄マップをひっぱり出し、協会まで経路を確認。協会にたどり着くと、佐伯さんにも女性の担当者が優しく対応してくれたという。

「マドリードの市街地図を出し『あなたの住んでいるところはどこ』と訊ねられたので『ここです』と示すと『あなたのウチから通えそうなところは……』といくつか印を書いてくれました。私が自身で通えそうな場所を答えると、すぐに目の前で監督に電話を入れてくれました。すると『今夜、練習だから来てね』と」と即決、なんともスペインらしいエピソードを披露してくれた。

しかし、サッカーどころのスペインとは言え、サッカーの門戸が女子に開放されていたかというと、実はそうでもなかったという。マドリード市の人口は1991年に300万人を超えたほど、しかし市内で女子が参加できるクラブは5つ程度しかなかったそうだ。

「私よりも上の世代ともなると親に反対された子も少なくなかったんです。同じクラブには、お風呂場の小窓から隠れて抜け出し、練習に来た……という子までいました。クラブ数も少ないのでお互いに行ったり来たりしないと一年の試合数も不足するほど。振り返ると、スペインでも女子サッカーがここまで発展したのは、本当に最近。実は『女子サッカー』という文脈においては、日本が圧倒的に発展していたんです」と明かした。

日本の女子サッカーは組織も競技者数も世界有数。実は日本人が知らない事実なのだとか。一時は、世界のトッププレーヤーが日本のリーグに在籍。「私の元同僚も1996年頃、日本のクラブとプロ契約していましたし、サッカー界において、日本の女子リーグが一目おかれる存在だったのは間違いないです。そういう歴史はあまり知られていないですよね」と佐伯さん。

そう振り返ると、ワールドカップで女子が優勝したのは、必然だったのかもしれないと考えさせられる。

アトレティコ・マドリードの女子チームを率いる佐伯夕利子さん(後列右端) 写真:本人提供

こうしてスペインのマドリードで再びサッカーを始めた佐伯さんではあるが、ずば抜けてうまかったわけでもない、プロ選手になれるとは思えなかった。そこに転機がやって来た。

「ある日、練習の後、満天の星を見上げながらストレッチをしクールダウンしていた時、突然意味もなく、無条件に鳥肌が立ったんです。『私にはサッカーしかない!』と。こんなに好きなものは、サッカー以外にない。漠然とした曖昧なきっかけだったんですが『私はこれで一生食べていきたい』と思ったんです。ヒスパニック文学を勉強していたんですけど、全然楽しくないし、モチベーションも保てずにいました。サッカーで生計を立てていきたいと思った18歳の夜でした」と、スペインに渡らなければ、サッカー界へのコミットメントあったか否かも大きな転機だったという。この時点までは「単なるスポーツ好き」だったそうだ。

サッカーで生計を立てる」とひと口で言うが、もちろんそれほど簡単なお話ではない点、サッカーに関与した経験のある方々ならよくよくご存知だろう。佐伯さんは、そこから職業として成り立つのは、果たして何か、考えを巡らせた。思いついたのは2つの選択肢。「監督などの指導者か、もしくはレフリーだった。今振り返るとサッカー産業を取り巻く職業は、他にもさまざまな選択肢があっただろうと思います。しかし、当時は進路として『先生』も想定していた影響か、その中から『指導者』を選ぶことにしました」。

しかし、これもとても簡単とは言えなかった。スペインにおける指導者資格をひとつひとつクリアして行く。それでも「指導者=職業」として生計を立てていける人数はほんのひとにぎり。それでも、スペイン国内でその目標を達成して行くと心に決めていた。そもそも日本人、つまりスペインにおいては外国人となるため、在留資格も確保しなければならない。そこで佐伯さんは自身で会社を設立した。

「自分の会社を設立し、通訳・翻訳を生業とすることで生計の軸を作り、同時に指導者としてのスキルを継続的にアップするという手法を取りました。しかも、翻訳・通訳ですがサッカー関係以外の業務は引き受けないと決めてやって来たんです」。

なんという意志の強さだろう。プレーヤーとしての才に自身で見切りをつけ、それでいて10代でサッカー界へのコミットメントを決意。以降、スペインという外国で、事業を切り盛りしつつ、サッカー指導者としてステップアップを選択した。この道筋は、やはり国内でぬるま湯につかって歳月を刻んできたサッカー関係者とは一線を画したに違いない。

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著者プロフィール

松永裕司●Neo Sports General Manager

NTTドコモ ビジネス戦略担当部長/ 電通スポーツ 企画開発部長/ 東京マラソン事務局広報ディレクター/ マイクロソフトと毎日新聞の協業ニュースサイト「MSN毎日インタラクティブ」プロデューサー/ CNN Chief Director of Sportsなどを歴任。出版社、ラジオ、テレビ、新聞、デジタルメディア、広告代理店、通信会社での勤務経験を持つ。1990年代をニューヨークとアトランタで過ごし2001年に帰国。Forbes Official Columnist

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