【山口和幸の茶輪記】ザッケローニのアイドル、パンターニの早すぎる死
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ザッケローニから見ればパンターニは16歳ほど年下だが、同郷のスポーツ選手として深い親交があった。スポットライトを浴びたのはパンターニの方が早く、そういった意味では憧れもあったに違いない。ザッケローニがウディネーゼの監督を務めていた1998年、パンターニは山岳スペシャリストとして戦後初となるジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスの二大大会を連覇した。
雑魚なレースはねらわなかった。ジロ・デ・イタリアやツール・ド・フランスの、しかも最難関の山岳で勝負した。急峻な坂道を飛ぶような勢いで上り、ライバル選手をあっという間に置き去りにした。イタリアでは自転車競技界の英雄ファウスト・コッピの再来かと期待された。独特の風貌からイル・ピラータ(海賊)と呼ばれ、日本でも多くのファンを獲得した。
1998年以降の人生は苦悩の連続だった。1999年のジロ・デ・イタリアでは大差で首位を走っていたが、最終日前日の血液検査で赤血球値が基準超えして出場停止処分。その後は交通事故やコカイン常用、家族とのトラブルで私生活はボロボロに。マスコミの執拗な攻撃も加わり、誰もが信じられなくなっていく。
心療内科に通っていたといわれる04年2月、滞在中のホテルで息絶えているのが発見された。インテルの監督になっていたザッケローニが「マルコの問題はボク自身も知っていて、彼を救える道がどこかにあるはずだと探していた」と葬儀で語ったという。
19世紀のフランス人小説家・政治家ビクトル・ユーゴーがメモ帳に記した一文に、「シャトーブリアンか無しか」というものがある。先人として同じ道を歩んだシャトーブリアンになれるか、そうでなければなんにもならないという意味。パンターニもきっと偉大な選手になりたかったのだろうが、自ら「無」の道を選択した。ザッケローニのアイドルは34歳でこの世を去ったのである。
《山口和幸》
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