といっても、パラリンピックが世に知れ渡ったのはそれほど昔のことではない。選手をはじめ、関係者たちのさまざまな努力があった。
■日本人初の金メダリスト
冬季パラリンピックにおける日本人初の金メダリスト、大日方邦子(おびなた くにこ)さん。1994年リレハンメル大会から2010年バンクーバー大会まで5大会連続で出場し、アルペンスキー競技で合計10個のメダル(金2個、銀3個、銅5個)を獲得した。
大日方さんは3歳で交通事故により右足を切断、左足にも重度の障害を負った。高校2年生でチェアスキーを始める。NHKの教育番組ディレクターを経て、現在は(株)電通パブリックリレーションズで、「オリンピック・パラリンピック部」という東京五輪開催準備の中心部に在籍。日本パラリンピック委員会運営委員、日本パラリンピアンズ協会副会長も務めている。
大日方邦子さん
1998年長野大会、滑降で獲得した金メダルが日本人のパラリンピックへの意識を劇的に変えた。
「私が初めてパラリンピックに出た頃は、日本ではパラリンピックはほとんど知られていなく、そもそも『パラリンピック』という言葉さえ通じなかった」
金色に輝く勝者の証しは、そんな状況を変えていくはじめの一歩となった。パラリンピックの存在は長野大会以降、広く日本に知れ渡ることになる。
日本パラリンピック界のパイオニア、大日方さん。その生き方に迫った。
■現役選手ではできないことをやりたくなった
---:なぜ現役を引退したのですか?
大日方邦子さん(以下、敬称略):やめた理由を一言で言い表すのは難しいんですね。色々な要素が重なったということになると思います。ひとつは、金メダルという目標を通して、やってみたかったことをある程度達成できたこと。
ふたつ目はやりたいと思っていたことが選手としてのキャリアの中ではやりきれなくなってきているな、と思ったこと。自分の立場を変えた方がいいと思ったんですね。3つ目は、現役を続けていくと、年齢とともに自分のパフォーマンスが下がっていくということ。
チェアスキーの特性は戦略的にも戦えること、とは言っても、続けていくなら金メダルはおそらくもう狙えない。
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その事実は、"勝ちたがり"の私に「最大限に自分の力を発揮したら、なんとかメダルを狙えるレベルには到達できるかもしれない。でも、そうまでして現役にこだわる必要はあるのか?もっと他に自分のやりたいことが見つかるのではないか?」ということを考えさせたんです。現役活動はもう「やりきった」ということを感じたんです。
4つ目、これが直接的な原因になったと簡単に話すこともあるんですが、バンクーバーでケガをしたこと。実際はケガをする前から、「自分はバンクーバーが最後になるだろう」となんとなく思っていましたが。
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