2人は当時24歳。ともに日本代表を引っ張っていこう、という無言のメッセージを受け取ったのか。清水エスパルスに所属していた岡崎は、帰国後に熱い思いを吐露している。
「自分にも野望があるし、それを成就させるために成長していかないといけない。圭佑のように世界へ出たいと思っているし、ただ単に移籍するだけでなく、そこで活躍したいと思ってもいる。圭佑をみていてうらやましいと思うし、同時に悔しさも感じる。自分は圭佑を見ているし、アイツも僕のことを見ている。意識し合う点で、やはり同期の存在というのは大きい。いつチャンスが訪れるかはわからないけど、いつかは世界ナンバーワンのストライカーになると、自分は無謀にも考えてきたので」
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岡崎慎司 参考画像(c)Getty images
ブンデスリーガのシュツットガルトへ移籍したのは、南アフリカ大会から約半年後。アジアカップを戦ったカタールからそのままドイツへ向かった岡崎の姿に、チームメイトも少なからず驚きを隠せなかった。
振り返ってみれば、岡崎のサッカー人生は、周囲から「無謀」に映ることの連続だった。例えば高校入学。全国から有望選手が集まる滝川二高を志望すると、周囲から猛反対された。
臆することなくセレクションを受けると、いまも恩師と慕う黒田和生監督(当時)から「3年生になっても試合に出られないかもしれないぞ」と忠告された。
3年時にはキャプテンを務め、ヴィッセル神戸からもオファーが届いた。それでも「地元のチームだと甘えが出る」と選手層の厚いエスパルスを選んだが、案の定、序列は8人いたフォワードの8番目。長谷川健太監督(現ガンバ大阪監督)からサイドバック転向を打診されたこともある。
それでも、岡崎の心が折れることはなかった。活路を見出したのはニアサイド。どんなに屈強な大男たちが待ち構えていても、怯むことなく飛び込んでいく覚悟を、岡崎はこんな言葉に凝縮させてきた。
「恐怖心を感じたことはない。鈍感という部分では、人よりもそうなのかもしれない。相手の前へ入っていけばゴールを奪える感覚はあったし、このストロングポイントでは誰にも負けたくなかった。クロスが上がった瞬間に頭から飛び込んで、ちょっとしてから『いまのは危なかったかな』と思うことはあるけど、ちょっとでも躊躇したほうがもっと危ない。こちらが体を投げ出せば、相手のほうが引いてしまうんですよ」
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