ベレーザの「10」番は、長くなでしこジャパンの大黒柱を担ってきたレジェンド、MF澤穂希(現INAC神戸レオネッサ)の代名詞だった。16歳だった入団4年目の1994年シーズンから背負い、日本とアメリカを行き来した間も、ベレーザに復帰したときは必ず「10」番が用意されてきた。
2010年シーズンも後半になって澤はワシントン・フリーダムから復帰したが、このときは「20」番が与えられている。こうした状況も、岩渕をさらに精神的に追い込んだのかもしれない。
■背番号の変更を申し出る
背負った十字架があまりに重たかったのか。2010年シーズン終了後に岩渕は背番号の変更をフロントへ申し出た。日テレ・ベレーザの運営母体、東京ヴェルディフットボールの羽生英之社長は当時をこう振り返る。
「2011年シーズンからは『13』番に変えました。まだベレーザの中心選手ではないし、周囲からの信頼も得られていないという理由で、岩渕本人が背番号を変えてほしいと言ってきたんです」
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2011年の女子ワールドカップ
決して呪縛から逃げだしたわけではない。いつかは必ず「10」番を背負うにふさわしい選手に、澤の象徴を継承するにふさわしい選手になってみせる。
岩渕の不退転の決意が志願の背番号変更に、そして2012年夏から活躍の場を女子ブンデスリーガへ移したことに込められていた。
迎えた2度目の女子ワールドカップ。ベンチで戦況を見つめる岩渕の隣には、決勝トーナメントに入ってからリザーブに回った澤の姿が常にあった。
「ホントにいろいろとしゃべりました。サッカーのこともそうですし、サッカー以外のことも。人としてもすごく尊敬できる方なので、ホントにお世話になりました」
会話の内容はもちろん秘密だ。それでもベンチで、あるときには後半のピッチの上で同じ時間を共有した岩渕は、長く澤が握ってきたバトンを受け取るべきレベルに達したと実感した。
【なでしこジャパンの次世代エース・岩渕真奈が見すえる未来 続く】